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【画像】三笘薫の幼少期・小学校・中学・高校・大学までのイケメンエピソードまとめ!

サッカーW杯カタール大会で大活躍を見せた日本代表MF・三笘薫選手。

2022年度は公式戦20試合に出場し、7得点2アシストを記録

プレミアリーグのみで見れば、出場した直近7試合(2023年2月8日時点)で5得点と活躍を見せ、市場価格は「55億円以上なのでは(現在約30億円)」との話も出ているほどに。

全世界から注目を集める三笘選手。そんな三笘選手の幼少期・学生時代、気になっちゃいますよね。幼少期から現在までの画像を時系列順にまとめてみました。

まとめて分かったことは、ちっちゃい頃からイケメン!では、見ていきましょう!

この記事では

  • 三笘選手の幼少期
  • 三笘選手の学生時代
  • 三笘選手の現在

についてみていきたいと思います。

三笘薫のプロフィール

名前三笘 薫
年齢25歳(2022年1月現在)
生年月日1997年5月27日
出身神奈川県川崎市宮前区
出生大分県
身長178cm
体重71kg
血液型O型
趣味音楽を聴く(洋楽)
頑張っていること英語
経歴川崎市立橘高校⇨筑波大学
所属ブライトン
利き足右脚
スパイクプーマ(ウルトラ アルティメット FG/AG)
剱持クリア
家族父・母・
市場価格8億7000万円/600万ユーロ

「三笘」の苗字の人は全国で約3200人ほどいらっしゃいますが、比較的珍しい苗字。

大阪・大分・福岡に多くいらっしゃるようです。

三笘選手の「三笘」と似ている「三苫」はどちらも「みとま」と読め、漢字を間違えられやすいところが悩みの種。川崎フロンターレ時代のプロフィールでも「『三笘』です。『三苫』ではないです(笑)」と書かれていました。

三笘薫:幼少期

三笘選手は大分県で生まれた後に神奈川県に引っ越されています。

出身地が神奈川県になっているので、大分県での記憶はほぼないのではないでしょうか。

三笘選手がサッカーを始めたのは3歳上のお兄さんである結木滉星さんの影響なんだとか!

お父さんである武史さんが買ってくれた小さいゴールネットをリビングに置き、自宅の中で繰り広げられたお兄さんとの1対1。

この1対1のミニゲームが三笘選手の圧倒的なドリブルの原点となったようです!

当時、日韓W杯が開催されたこともサッカーにハマった大きなきっかけの1つ。「W杯からサッカーを意識するようになった」と武史さんが取材で答えられていました。

薫がサッカーにはまったのは、2002年の日韓W杯。当時は5歳でしたが、3歳上の兄と一緒にテレビで見ていました。毎朝、新聞を取りに行って、W杯の結果をかじりつくように見ていました。出場国の国旗やどこの国にどの選手がいるなど、覚えていましたね。すでにボールを蹴り出してはいましたけど、W杯からサッカーを意識するようになったと思います。

引用「スポーツ報知

神奈川県川崎市宮前区にあるマンションに住まわれていた際には、お隣に俳優の松重豊さんが住んでいたようで、現在でも三笘選手の両親と松重さんは交流があるようです。

三笘薫:小学校

三笘選手は、川崎市立鷺沼(さぎぬま)小学校に通いながら小学校2年生の時にサッカークラブ『鷺沼SC』に所属。本格的にサッカーを始めることとなりました。

その後、小学校3年生川崎フロンターレアカデミーU-12のセレクションに合格し、川崎フロンターレ時代の幕開けを迎えます。

当時U-12の監督だった高崎康嗣さんはこのセレクションでの三笘選手に対してあまり良いイメージを持っていなかったようです。

しかし、最終的にセレクションで獲得した判断は間違いなかったですね。

「薫を獲るかはうーんという感じだった。もっと仕掛ければいいのになというシーンでも、前に蹴って『ワー』みたいな。4年生に混ざってやる子をピックアップしていたから、上についていけるかなと。躊躇したんだけど、地元の鷺沼の子だし、最後は獲ろうとなった。いざ始まってみたら、こりゃとんでもない逸材だったなと」

引用「川崎フロンターレHP」

この高崎監督の指導で口酸っぱく言われた

高崎康嗣

どのポジションでもゴールを意識してプレーしろ

という言葉が今でも三笘選手のプレーの原点となっています。

この頃の川崎フロンターレU-12には、1学年上に同じくW杯日本代表の板倉滉選手・東京オリンピック日本代表の三好康児選手の姿も。

後述する田中碧選手も入れてまさに豊作の年代ですね。

当時から小学校に三笘選手のファンクラブがあると噂が出るぐらいイケメンぶりを発揮されていました。

「薫とは別の小学校だったんですけど。これはうわさなんですけど、彼のファンクラブがあったんです。本人は否定しますけどね(笑い)」。

引用「日刊スポーツ」

性格は、当時「自分の信念を貫く頑固さを持ち、目標に向かって取り組む責任感があって負けず嫌い」と評価を受けるほど負けず嫌いで頑固。

責任感の強さを見出されて小学6年生時にはチームの主将に。チームを優勝させることができなかった悔しさから、西が丘で泣きじゃくったというエピソードもあるほど責任感の強さ・負けず嫌いな性格がはっきり見えますね。

負けず嫌いは、私生活のゲーム中でも。友人としていたウイニングイレブン、負けたら周りが気を使うほど黙り込んでしまっていたようです。

でも、そんな負けず嫌いな三笘選手ですが、周囲の意見を取り入れたり・意味を考えたりする素直さ・柔軟性があったからこそ成長するスピードが著しかったのだと考えられます。

アカデミー時代に中村憲剛選手と手をつないで試合入場する貴重なシーンも。

偉大な先輩・大勢の観客の前に少し緊張気味で少し顔のこわばっている三笘選手。今では同じように大舞台に立っていますが、この時はそんなシーンも想像していたのでしょうか。

鷺沼小学校から同じく川崎フロンターレアカデミーに入団した1歳年下の田中碧選手。田中選手と三笘選手は兄弟のように仲が良く、顔も似ています。イケメンというより2人とも可愛らしいですね。

田中選手は個人練習の時に、よく三笘選手に1対1の勝負に挑み、互いに切磋琢磨を繰り返していたようです。

川崎フロンターレのアカデミーダイレクターを務める後藤静臣さんが二人のライバル関係に対して取材でこのように答えていました。

 三笘の1学年下の田中は「薫さん、やりましょう」と言って、1対1を挑んでいたという。

「(田中)碧は薫に対するライバル心があったように思います。それは外から見ていて、感じましたね」

引用「Sportiva

2人の出身校である鷺沼小学校では、東京オリンピックに出場する両選手に向けて横断幕が掲げられていました。

今回W杯に出場する際にも、横断幕でメッセージが送られていますね。

そんな鷺沼コンビの三笘薫選手と田中碧選手。W杯グループリーグのスペイン戦では見事な連携でスペインゴールに勝ち越し弾を叩き込みました。

スペイン戦の後には、Jリーグの公式SNSが「#鷺沼兄弟 が無敵艦隊を撃破」と勝利をお祝い。

メキシコ紙『エル・シグロ・デ・トレオン』でも“三笘と田中の抱擁の裏話”と報道されるなど、各国の海外メディアでも2人の関係性を取り上げるほど話題になっています。

田中碧選手だけでなく、なでしこジャパンMFとして活躍する三浦成美選手も三笘選手と同じ小学校の同級生。三笘選手と三浦選手は小学校以前から付き合いのある幼馴染です。

三笘選手への応援やお祝いの際に、Twitterでメッセージとともに可愛らしい幼少期の写真をアップされています。

三笘薫:中学校

三笘選手は川崎市立有馬中学校に通いながら、川崎フロンターレアカデミーU-15ジュニアユース)に所属。

ジュニアユース時にはすでに他の選手と比べても類まれなる才能を見せていたようで、最高学年ともなると、『ドリブラー三笘薫』の存在が周囲に知れ渡るほど。

三笘選手が中学3年時のクラブユース選手権、ガンバ大阪との準々決勝。当時特に上手い選手の揃っていたガンバ大阪相手に3-4の打ち合いの末に敗戦してしまいました。

しかし、試合中にガンバ大阪の選手を颯爽とドリブルで抜き去る三笘選手に対して、ガンバ大阪の監督が「ここまで崩されたのはフロンターレが初めて」と絶賛。それほど三笘選手のドリブル・プレーが際立ったのでしょう。

「当時のガンバはタレント軍団で、クラブユース選手権で優勝したのですが、試合後に相手の監督さんが『ここまで崩されたのは、フロンターレさんが初めてですよ』と言って、薫を絶賛していたことを覚えています。『止められなかったです』って」

引用「Sportiva

三笘選手と同じく田中碧選手も川崎市立有馬中学校に通いながらフロンターレU-15でサッカーの腕を磨きました。

小学生時代の写真から少し大人っぽくなっています。

同じ小中学校・サッカークラブに通い、W杯で活躍を見せる2人!

すごい絆ですね!

三笘薫:高校

三笘選手は高校時代、川崎フロンターレアカデミーU-18ユース)に所属してさらにサッカーの腕を磨きます。

通っていた高校は、川崎市立橘高校

偏差値が高く・スポーツにも力を入れている人気の高校に通っていましたが、ユースに所属しているので学校の部活には入っていませんでした。

 当時、ユースの練習が18時から20時過ぎまで。そこから自主練習・食事をとって、練習場を出るのは22時。練習場から40分ほどの距離にある自宅に帰宅するのは、いつも23時前後。

かなり濃密なスケジュール。それでも帰宅中の電車の中でも1人勉強に励むなど、時間管理能力がずば抜けていました。まさに文武両道ですね。

当時の生活に三笘選手は充実感を感じていたようです。

「ドリブルを磨くために、練習後に同期の島崎竜(現在はアメリカでプレー)と一緒に1対1をずっとやっていました。いつも帰る時間は遅かったですけど、すぐに食事を出してくれたり、朝も早くお弁当を作ってくれたりしていたので、両親は大変だったと思います。でも遊びたい気持ちもなかったですし、サッカーをやるならそこしかなかった。高校生は疲れを感じないので、本当に楽しかったですね」

引用「川崎フロンターレHP」

3年時には10番を背負い、ドリブルにもますます磨きがかけていました。

高校は違ってしまいましたが、幼馴染の田中碧選手も同じくフロンターレU-18で三笘選手とともにサッカーに励みました。

三笘選手がU-18を引退する際に、退団式で田中碧選手が送った言葉が「小生意気」と話題になっていました。

田中碧

2年間ありがとうございました。

薫さんは本当にドリブル上手くてすごかったですけど、たいしたことなかったです。

一緒にプレーしてて本当に楽しかったです。

大学でも頑張ってください。

確かに小生意気に思えますが、三笘選手と本当に仲が良かったんだなと実感できるメッセージ。

田中碧選手はU-18からトップチームに昇格し、そのままプロサッカー選手となる道を選んだことで、別々の道を歩むこととなりましたが、2人の幼い頃からの共通の目標「日本代表」をお互いに叶え、お互いに世界で活躍する存在に。次は敵・ライバルとして対戦する日も来るのではないでしょうか。

三笘薫:大学

高校卒業後、クラブも周囲も当然のように三笘選手が川崎フロンターレのユニホームを着て活躍する姿を思い描いていました。しかし、三笘選手は筑波大への進学を選択

大学を選択したのは「トップでやっていく自信がなかったから」なんだとか。

自身の実力不足を客観的に分析して出した結論。

そこまで自身を俯瞰的に見ることができる高校生も稀ではないでしょうか。

「トップに上がったときに活躍できるイメージがなかったんです。(1学年上の三好)康児くんは当時からすごかったのに、1年目はほとんど試合に出られなかった。康児くんに比べたら自分はまだまだでしたし、自分の武器や能力の低さを実感していました。だから大学で試合を経験した方が成長できると思いましたし、自信をつけるためにも行こうと。人間的な部分で大人になりきれていないところもありましたし、そういったところを含めて大学で一回り大きくなろうと考えていました」

引用「川崎フロンターレHP」

筑波大を選んだことにも理由がありました。

  • 都会から離れてサッカーに打ち込める環境
  • 授業を通じて運動に必要な知識を学べること
  • 色んな競技のスペシャリストがいること
  • スポーツ科学の叡智が集まっていること

サッカーだけでなく陸上競技の選手・指導者から走り方を学ぶなど体の使い方や技術を覚え、勉強についても運動生理学や栄養学、授業以外にも独自で本を読むなど、積極的に学んできたことで、プロでも通用する身体・数々の武器を手に入れました。

この時に、当時陸上部に在籍していて現在三笘選手の妻となる剱持クリアさんとの出会いもあったのでしょうか。

卒業論文では「サッカーの1体1場面における攻撃側の情報処理に関する研究」と題して、小型のアクションカメラ『GoPro』を頭につけ、ボールを持って相手に向かっていき、自分がドリブルの時に何を見ているのか、相手の反応含め、映像で可視化・検証して作成する徹底ぶり。

卒論のテーマにまで選んだドリブル。

元日本代表の内田篤人さんとのイケメン同士の対談で、三笘選手はドリブルに対して

三笘薫

(自身に)絶対的に必要なもの。自分の中で大きなもの。

と表現されていました。

「ドリブルがないと、ここまでサッカーも来られていないと思いますし。ドリブルを磨くのは、絶対的に必要だと思って、昔からやってきました。ドリブルが強くなる分、他も生かせると思ってやってきたので、それだけ自分の中で大きなもの」

引用「Yahoo!ニュース

三笘選手の卒論指導をした小井土正亮監督は、三笘選手に対して

  • 真面目
  • 自己改善の天才

と評価。

自分で仮説を立てて検証した内容を自分自身に取りこむ。そんな過程を経て進化していく三笘選手の圧巻なドリブル。その技術の一端が垣間見えますね。

一見遠回りに見える大学進学も自分にとってプラスに持っていく。「遠回りが一番近道」という野球のイチロー選手の名言を体現しているかのような三笘選手。

自己分析シートには『なりたい自分』になるために、現在の課題と今後自ら取り組むことを白いスペースにびっしり書き込み、現在と目標を言語化、地道に泥臭く1つ1つ壁を乗り越えてきました。

その姿は決して「三笘は『天才』」の一言で片付けられるような才能ではありませんね。

「すごく真面目でしたね。テーマも自分で決めて持ってきましたから。ドリブルするときの視線が他の人とは違うという仮説を立て、グラウンドで実験し、一生懸命に検証していました。最後まで自分で考えるタイプで、すぐに『どうしたらいいですか』と聞きに来ることはなかったです」

「世界のトップを目指すサッカー選手にとって、大学で何者になれるか、分からない4年間を過ごすのは、精神的にきついところもあったかもしれません。それでも、目標に近づくためにどうすればいいのか、『なりたい自分』から逆算して努力していました。『すごい』だけではなく、地道に泥臭く一つひとつ壁を乗り越えてきたことも知ってもらえるとうれしいですね。彼のことを天才だと言う人もいますが、私は“自己改善”の天才だと思っています」

引用「NUMBER」

大学のサッカー部では、1年時には出場できない時期もありました。しかし、2年時の6月、天皇杯2回戦・仙台戦で60メートルの独走ゴールを含め2得点。J1クラブを3-2で倒すジャイアントキリングの立役者となり、三笘薫の名前は一気に全国区に。

その後、現日本代表監督の森保一監督が率いる東京五輪代表の立ち上げとなったU-20日本代表のタイ遠征のメンバーに選出。

選出前、関東大学リーグの筑波大の試合を視察した森保監督は、三笘選手のプレーを見てすぐに招集を決意。

「オフ・ザ・ボールの動きで相手を外せる選手は多いですけど、オン・ザ・ボールの状態でドリブルで仕掛けられる選手は日本には少ない。動きにムダがなく、柔らかくて、スーッと抜けていく。その特長を国際試合で見てみたいなと思い、招集しました」

引用「川崎フロンターレHP」

森保監督からの期待に応える三笘選手。「戦術・三笘」という言葉も出るぐらいなので森保監督も三笘選手に厚い信頼を寄せているのではないでしょうか。

まとめ

この記事では、今W杯で活躍中の三笘選手の

  • 幼少期
  • 小学校
  • 中学校
  • 高校
  • 大学

これらの時代のエピソード・イケメン画像について見てきました。

負けず嫌い・責任感の強さ・俯瞰力・時間管理能力・自己改善能力などなど。各エピソードの中に三笘選手の能力がわかるエピソードがありました。これらが今の三笘選手のプレーにつながっているんだと思います。

今後も成長し続ける三笘選手。そんな三笘選手をこれからも注目していきます!